寒くなりましたね。
キーボードを打つ手がかじかむので、お風呂に入ってからでないと入力できない季節になりました。
書きながら自分でも混乱しつつ、今日はここまでにしたいと思います。
明日中には最後まで書きたいです。

拍手を押してくださった方、どうもありがとうございます。
長くなってくると途中で投げ出したくなるときもあるのですけれど、読んでくださる方がいると思えば踏みとどまれます。
なんとかこうとか、のらりくらりと、それでも完結を目指したいと思いますので、よろしければお付き合いください。
お返事はもう少しお待ちいただけると幸いです。

続き

とても声などかける気にはなれなかった。
二人が反対側の道にある店に入るのを見届けてから、身を翻した。
石畳の道はこんなにも柔らかなものだっただろうか。
一歩進むごとに沈んでしまうような錯覚を覚えた。
ぼんやりと足を動かす。景色も人々も何も視界には入らなかった。
子どもが家にやってきてもう2年にもなる。
最初こそなんの思い入れもなく、単に世話になった上官のため住まいや金だけ提供するつもりでいたのだ。
親の愛情などなくとも金があれば子は育つ。自らがいい例だ。
兄弟もおらず、子どもなど持ちたくもなかったロイエンタールにとって、小さな手に必要とされることがどれほど嬉しいか、裏表のない純粋な笑顔にどれだけ癒されるか、本来なら知り得なかったことである。

本来手に入るはずのないものだったから、手放さなくてはならない時がすぐにやってくるのだろうか。
一度はこの手に入ったものを失うのは、一度も手に入れなかった時よりつらいものだろう。
2年の月日で絆と呼ばれるような物が作られていたと思ったのも、錯覚だったのかもしれない。
幼少よりかけられ続けた親からの呪いがここでも効果を出しているようにも思えた。
ずっと自分だけのものでいてくれるはずがないとは思っていたけれど、親友であるミッターマイヤーの傍で今よりずっと幸せそうなミュラーを見るのは耐えられそうにない。
そうなったら自分はどうするのだろう。
想像だけでロイエンタールは足を止めた。
数歩の距離にあった店のショーウィンドウを眺めるふりをしながら、大きなガラスに手を当て長身を預けながら、しばし打ちひしがれていた。

目を閉じれば嫌でも楽しそうな二人の顔が浮かんだ。
そこに自分などいなくても、楽しく過ごすことなど簡単なのだ。
どんどん卑屈になっていく己を自覚していた。
やがて窓ガラスから離れて少なくとも表面的には元通りにロイエンタールは歩き出した。
ガラスの向こう側で見つめられていたと勘違いしてしまった女性の存在を、その金銀妖瞳は映すことはなかった。

その日からロイエンタールは意図して自宅へ帰る回数を減らした。
すぐに片付けなくてもいい仕事で泊まりこんだり、女の所へ行ったり、女を別邸に連れ込んだりと、子どもが家に来る前のような生活を送っていた。
ミュラーがいつものように明け透けな好意を向けてくれればこのささくれだった気持も癒えるかと思ったが、ミッターマイヤーと比較されるのが端的に言えば怖かったのだ。
嫌われたり恨まれたりするのは生まれた時からであるから慣れたものだ。けれど、子どもらしくない気を使わせて自らのこと「も」好きだと言われるのはどうにも受け入れがたいものだった。
だからといって「ミッターマイヤーの家に引き取られたかったならそちらに行けばいい」などとはとても言えない。
一度手に入れたものをみすみす手放したくはなかったし、何よりその言葉がどれだけ子どもを傷つけることになるかを考えたら言えるはずもなかった。
両親が亡くなってから親戚中をたらい回しにされた過去を思い出させるに決まっている。
あの子どもの心ひとつでロイエンタールの心を強かに傷つけることが出来るのだとしても、子どもの心を傷つけることだけは避けたかった。それは何を置いても最優先で守りたいことだから。

それなのにその最優先で守りたいと思う存在を意図的に避けようとしている自分は何なのだ。
使えない上官に苛立った時も、訳のわからない主張で言いがかりをつけてくる身分だけは立派な貴族にうんざりした時も、自宅に帰ったとき笑顔で出迎えてもらえるから帳消しにできていたのに、今はそれができないからストレスはたまる一方だった。
そもそも顔が見られないことそのものがストレスになるというのに。
いつにない頻度で女性を取っ替え引っ替えした所で、ちっとも気は晴れなかった。



ミュラーは綺麗にラッピングされた包みを机の上に置いて眺めていた。
近頃の兄は忙しいのか家に帰ることが少なくなった……というよりは、帰ったとしてもミュラーが寝てしまった後で、全く会えない日が続いていた。
最初こそここぞとばかりに家中の使用人に仕事はないか訊いて回っていたものの、目標額が貯まってプレゼントを買ってしまうと会えないのが途端に寂しく思えた。
ミッターマイヤーと出かけたあの日に見かけたそれは、手持ちでは少し足りなかったのだけれど、一昨日になってなんとか購入できた。
また心配させるといけないからと、その時は執事と一緒に出かけたのだった。
多分にいろんな人の助力を含んではいても、それでも自分の力で用意することができて嬉しくてたまらなかった。
持って帰る間に何度か包みを抱きしめてしまいたくなるほどだったが、皺になっては困るとなんとか堪えて持ち帰った。

早く渡したいなぁ。どんな顔するんだろう。喜んでくれるかなぁ……。

想像するだけで口元が緩む。
これを渡して、そして言いたいことが、たくさんできた気がする。
みんなのおかげで用意ができたのだとか、夫妻の話だとか、もっと好きなものを教えてほしいとか……。
だけど一番に言いたいのは、今ここにいることができて、幸せなんだということだ。
今こんなにも幸せなのは、他でもないロイエンタールのおかげなんだと、伝えたかった。

そして二人が顔を合わせることのないままさらに数日が過ぎた。
このままもし当日にも本人が帰ってこなかったらどうしよう。
そんな根本的な問題が浮上したものの、その前日の夜になってようやく一台の地上車が止まるのが窓から見えた。
見慣れたそれが、なんだか少し懐かしい。
浮き足立つような気持ちで、ミュラーは階下へ急いだ。



自宅に戻らない日が続くと少しばかり冷静になって考えられるようにもなった。
もし子どもを他の誰かの手に委ねる時が来たならば、ミッターマイヤーに託すのが一番安全である。
面倒見がいい親友なら安心して任せられるだろうし、いつでも動向を確認できるのだから。
多少釈然としないがもしそうなった場合は、酒に酔って喧嘩したときにでも一発だけ多く殴らせてもらおうと心のなかで一方的に決めていた。
心の折り合いが付けられたところで、ロイエンタールの足は自然と本邸へと向かっていた。
街中で見たときの衝撃が薄れつつあったのに加えて、やはり顔が見たいという一念に逆らえないのだった。

しかしながらいざ玄関のドアに手をかけると、急に怯えにも似た緊張が腕を絡めとって動きを鈍らせた。
この向こうで冷たい視線を浴びせてくる弟の幻影がふと脳裏をよぎったのだ。
会いたくないと帰らない日々を送ったくせに、会いたくなると戻ってくるという身勝手さは承知の上だが、それでもいざその前に立つとためらいを覚えた。
会いたいのだから仕方が無いではないかとさらに勝手な意見を付け加えながら、ロイエンタールは自宅のドアを勢い良く開けた。

「兄さん! おかえりなさい」

家の前に地上車が止まったのを見て自室から出てきたのだろう。ミュラーが階段を降りてくるところだった。
自分でも嫌になるくらいの身勝手な振る舞いの数々など、全く気にも留めていないかのような笑みに拍子抜けする思いだ。

「変わったことはなかったか?」

久しぶりに帰宅するときの癖でつい聞いてしまった。このセリフが意図せず口をついたということは、それだけ会うのを避けていたのだと自覚する。
以前と変わらぬ笑顔で出迎えてくれる弟につられていつものように手が伸びた。
砂色の柔らかい髪をすくいながら、その感触を確かめていた。
やがてこの手を離れてしまうのなら、それまでの間少しでもたくさんの記憶を刻みつけておきたかった。
くすぐったそうに笑いながら彼は応えた。

「んー…特に変わったことはないよ」
「そうか」
「ねぇ兄さん。明日は何か予定あるの?」
「明日か? いや、何もないが……少し疲れたから、ゆっくりするつもりだ」
「そっか。最近忙しかったみたいだね。なんだかお話するのも久しぶりだよ」

忙しいなんていうのは方便だったにも関わらず、弟はそれを疑うことをしない。
誰かの言うことを素直に信じることが出来るのも一種の才能なのではないかと思ってしまう。
自分はこの子の帰りが一晩遅かっただけであれこれ考えてしまうというのに。

寂しかったからと離れたがらないのは、女も猫も子どもも同じなようだ。
廊下を歩いて行くロイエンタールの腕を掴んで離そうとしない。
それだけ寂しい思いをさせてしまったのかと、今日帰ってきてよかったと思う。
もっと早く帰ってこれたらよかったのだが、それには勇気やら度胸やら必要なものが足りなさ過ぎた。

「ね、明日は家にいるんだよね」
「ああ」

何故だか念を押すように確認された。
家にいてほしいのかそうでないのか、子どもの考えることはよく分からない。
だけどミュラーがその時見せた表情がロイエンタールにとって一番見たかったものだったから、何も言わずにもう一度だけ頭を撫でた。